2011年2月25日

上士幌、大地の学校視察

Filed under: 山村留学生 — 管理人 @ 5:31 PM

鹿追町自然体験留学センターを支援するホームステイの会主催の視察があり上士幌町にある大地の学校に行った。 以前からホームページなどで知ってはいたものの実際に直接話をうかがうと我々とのスタンスの取り方とははるかに違った。  行政の支援を受けない民間の山村留学施設であり、真剣に向かい合わなければならない事が理解できる。  大阪出身の森田さんは楽しい話をしてくれたが、行政、学校、運営など大変苦労されたと思うがいっさい語ろうとしなかった。

私たちもそうだが子供たちの成長する姿やスケート、野球などに真剣に打ち込むすがたを見るのが楽しみになる。 もちろん学業も成績につながればベストです。 部活に意欲的に取り組む生徒は学業にも比例して意欲的になる事は昔から知られている。 やる気がある子は初心者でも帯広のスケート少年団に入り活動しているそうだ。  片道1時間くらいの送り迎えが大変だと思うが子供たちの成長する喜びが森田さんを支えていると感じた。  私たちが鹿追までの送り迎えなどは問題にならない負担だ。

今年中学を卒業する子がスケートを頑張りたいと釧路管内の標茶高校に進学してオリンピックを目指すそうです。 標茶高校は道立でありながら男女の寮を完備しており、元オリンピック選手が指導者(教員)で環境は素晴らしくスケート技術が伸びると思う。 と視察に行って感じたという。 スケートをやらない子は地元上士幌高校に進学するそうです。(地元でも学業、部活両建てで取り組む姿勢が必要だが。。。。)

「私は里親なのでこちらの事はまかしてもらっています。」 と森田さんは語る。 この発言を聞くと我センターは・・・・・・かもしれないと感じた。

2011年2月22日

もうだめだ腹いっぱい

Filed under: 山村留学生 — 管理人 @ 9:35 PM

今日は山村留学生最後のホームステイになり 隣町にある焼き肉バイキング食べ放題に行った。 小学5年生の二人はすさまじい食べっぷりだ。 普段おいしいものを何も食べていないかのように 「めちゃ、テンションあがる!!」 とうれしそうにバイキングを堪能した。

 何を食べたかご紹介しよう。 牡蠣4、ホタテ2、エビ4、ほし芋2、牛サガリ&ジンギスカン4皿、寿司数個、蕎麦1、ライチ数個、ヨーグルト、ケーキ、ゼリー、メロン、ソフトクリーム、アイスクリーム、綿あめ、コーヒー、ココア、雪見大福、チョコフォンデュは数え切れず、などたくさん食べました。 「吐くんじゃないぞー」 といった本人が吐きそうでした。 

帰るとすぐにミヨンと床暖のうえでひと休み。

2011年2月20日

サツマイモ栽培を探る

Filed under: サツマイモについて — 管理人 @ 6:54 PM

先日、町農業振興課主催のバイオガス熱エネルギーを利用したハウス栽培に向けて視察研修をした。町議さんとJA農産課長とともに参加し、先進地の大正町のM農場のお話を聞かせてもらった。 Mさんも栽倍した当初は失敗をしてうまく苗ずくりができなかったそうだ。  北海道の農家はジャガイモ栽培と関連があると考えてしまうがその考えは一切捨てなければならない。 逆転の発想ではないものの苗づくりから貯蔵まではまったく違った作物なのだ。 

M農場では種イモはスーパーで売られているものでなるべく元気そうなサツマイモを選んでいる。  昨年は本州が暑さのため不作だったそうで種イモがないか本州からM農場に問い合わせがきているそうです。 将来種イモとして販売することも視野に入った。 その種イモを47度~48℃のお湯に40分浸し伏せ込み(種イモを並行にならべ隠れる程度に2~3センチ覆土)する。   芽が出て20~30センチになったら苗として地表から2~3センチを残して切り取る。  4~5回それを繰り返し採苗できこれが苗となりマルチをした成形畝に移植する。

 十勝、鹿追の乾性褐色火山性土は保水力があり有機質が多く、さほど肥料を施肥しなくても苗は枯れることなくほったらかしで大きなサツマイモがとれる。 なるべく雨が降りそうな前日に移植すると枯れる心配がない。 降雨後は霜の心配があり霜に弱い作物なので移植は注意しなければならない。  いまのところサツマイモは北海道ではめずらしいので病害虫も発生してないそうです。 

サツマイモは手間いらずの便利で美味しいダイエットにもなる作物である。 また経費がかからず収益性の高いこの作物を研究して損はないのである。

2011年2月19日

日本語能力試験1級合格

Filed under: 中国人研修生 — 管理人 @ 12:07 AM

一昨年村瀬ファームに来ていた中国研修生ホウさんがわずか1年弱で日本語能力試験の最高峰1級に合格した。

彼女は中国で200アール (我々はアールの単位は普段使わないため時々単位を間違うが合っていると思う) の農地(すべて国の所有地で農民は借りている)をもつ農業者であった。 24歳で8ヶ月間研修生として来たが日本語はそれほど話せなかったと思うが他の人よりわずかに能力があると感じる程度だった。  研修中は常に日本語を理解しようとする意欲があり、わからない言葉があれば質問を欠かさずしてきた。 また日本食にも慣れたいと普段食べない刺身や寿司などを積極的に食べていた。

「 私たち日本人も中国を理解するために努力をしているだろうか? 批判だけしているのではないかな? 中国は一党独裁の国、一般民衆と役人では不平不満は全く違う立場にあり、12億人の中国人を同一に判断するのはあさはかなことだ。」

第二次世界大戦の終戦直後、満州の関東軍は移住した日本人農業者を捨てまっさきにロシア軍から逃亡した。日本人農業者を盾にしたのだ。 その時のことを満州で9歳だった叔父が良く話してくれる。叔父の父は農業改良普及員のような仕事をしていたそうです。  満洲国時代には関東軍にいやというほど屈服されていた中国の人だったが子供には罪はないと、逃げる足かせになる幼い子供を預かってくれた。 乳飲み子はかわいそうで手放せなく食べるものもない窮状では兄が自分で行くといったそうだ。 それが中国残留孤児という家族が離れ離れになる悲惨な結果を生んだ。 中国の人は本当に優しく感謝していると毎回涙ながらに語るのである。  その兄も数十年後に日本に生きて帰国できた。  最初に帰国した人は本当の兄弟ではなく改めて捜索して見つかったそうだ。 しかし弟は逃げる途中亡くなり小高い丘の大木のふもとに埋葬したそうだ。 今行ってもわかると思うから行ってみたい。そこで眠っている弟に会いたい・・・・・・・・」 と熱く語るのである。

話はもどりそれでも日本語が理解できないときは昼休みに辞典で調べて勉強していた。  休みの日など時間があれば日本語の勉強をしていて、その姿は本当に感心した。 送り出し機関の社長さんにホウさんだったら日本語の先生になれると推薦した。  彼女は帰国後すぐに大学に入り日本語研修を5ヶ月間して2級に合格している。  そして送り出し機関の日本語学校に採用されて現在に至っている。   働きながら日本語を勉強してわずか10ヶ月ほどで先月の試験で1級に合格してしまった。 合格の条件はまず文法が正確にできないとだめだ。 みんな驚いているが1級の合格率は20%台なのだ。 1級に合格すれば何処でも日本語通訳はできるし就職には困らないだろう。 中国人の勤勉な姿には感嘆するしかない。

私は何としても中国語を覚えようとする意欲がわかないので諦めました(英語より難しいと思う)。 片言の英語だけで満足しています。 中国語の担当は息子と上さんにまかせました。

 

2011年2月14日

若い女性からのプレゼント

Filed under: 体験付き修学旅行 — 管理人 @ 8:33 PM

 今日はバレンタインデイーでチョコを貰える日なのだ。 学生時代に中学、高校、大学と自慢?だが一度もチョコを貰ったことがないし、義理チョコもない。 もちろん告白された記憶がないが告白したことはある。もちろん残念な結果になった。 高校は野球ばかりしていたからなぁー。 田舎では派手にチョコをやり取りするこがなかったように思う。手紙は下級生から一通もらったことがあったが・・・・・・何も行動を起こせなかった。 

 卒業式の前日に大掃除をしているとき時、後ろから村瀬君と合わなかったね!とさびしそうに同級生から言われた。 自分には高嶺の花 (成績が良く美人で彼がいたが、3年間好きだった。)で、はずかしくて何も話せなかった。 ちまたの話ではその付き合っていた彼と結婚したそうだ。 それ以来クラス会でも再会したことがない。その彼女は告白したことがないのに好きだということがばれていた。 女性の感はするどい。

写真の左はかみさんの柳月の義理チョコ。あッ、本命チョコです。 右は若い女性アズさんの義理チーズケーキ。本命ではあらず。 20代の女性からもらったのは久しぶりですが、ものすごくおいしいです。 食べた瞬間手ずくりなのがわかりました。 ありがとうございました。

チョコの原料カカオ豆は中央アフリカが主産地でコートボジアールやガーナが有名だが。 カカオ豆の生産農家は子供を教育から引き離し児童労働させている現状はいかがなものかと思う。 そんな視点からチョコを見る目も厳しくなってしまう。 カカオ豆の皮はかたくナタでたたかなければならない。子供の力では無理があり怪我をする子供が後を絶たない。 バレンタインが児童を強制労働に駆り立て足や手をなくする子供を増やしていることになる。

そこで提案だが、チーズケーキを送るようにしたらどうだろうか。 乳製品や小麦粉などの消費拡大になりアフリカの子供が小学校に通えることになり一石二鳥の効果である。みなさんは賛同できますか?チーズケーキは最高においしかった。 また食べてみたいなぁ・・・

 

 

2011年2月13日

第三十回然別湖コタン2011 嫁はここで見つけろ!

Filed under: 趣味、旅行、アウトドア — 管理人 @ 6:13 PM

地元にいながらなかなか行けないものだ。 長男夫婦が遊びに来たので十数年ぶりに然別湖コタンを訪れた。(長男はお笑いのサバンナ高橋に似ています)

気温はー7℃で氷上に足を踏み入れると寒さは一段と厳しく昼間でもー10度は超えているだろう。 今年で30回の節目を迎え今月の27日にコタン実行委員会にかかわったOBが集合する。私が実行委員だったのは平成9年ごろまでだったと思う。 そのころよりパワーアップしてアイスバーは二階建てになっていた。 露天風呂や教会(建設中)、宿泊体験できるイグルー(氷の家)などは当時からほとんど変わらなく同じだ。

当時は毎夜8時頃から12時近くまで建設作業をボランティアで仲間たちとしていた。腹がすいたらカップ麺、のどが乾けばアルコール、寒くなれば露天風呂など何かにとりつかれたようにもくもくとするのである。 実行委員は町内の青年組織から参加していてほとんどが独身であるがゆえ目的意識がはっきりしていた。 長ーく彼女のいない生活と毎回男ばかりの付き合いにあきあきしていたのだ。 それほど若い女性が町内にはいなかったのだ。

私が所属していた農村青年会は男子会員が約100名で女性は10名前後しかいなかった。 90名は町外を中心に相手を見つけなければならなかった。 笑い話ではないが女性一人にトラック一台の男性が群がると揶揄された。 悲惨な状況だった。

コタンが縁で愛が生まれ生涯の伴侶を得た仲間も7~8組はあると思う。 つまり結婚までいかず付き合う程度のものを含めると相当な愛と出会いがあったと思う。 氷を溶かすようないきおいだった。 あのバイタリィティな活動はいまの若者にはあるのだろうか?と考えた時、時代が違うのだから同様な評価をするのは無理かもしれない・・・・・・。

当時の仲間と久しぶりに会える日を楽しみにしている。

氷上結婚式のための教会を建設中でなつかしい作業を見せてもらった。 わくわくしながらイグルーの中に入って写真を撮ったところ「危ないですから出てください!」 と言われてしまった。 台湾から来ているボランティアらしき女性三人と制作スタッフ男性三人が黙々と作業をしていた。 村長を見つけたので頑張っているねえーと声かけをして退散した。

家のカミさんは然別湖コタンに訪れた観光客&ボランティアスタッフでした。

 

 

2011年2月1日

言葉を理解できるミヨン

Filed under: 未来へ向かうこれからの農業 — 管理人 @ 12:04 PM

34年前のS52年、NEWZEALANDの雇い主夫妻が我が家に遊びに来ることになり、急きょ住宅を建築するこになった。

住宅が完成し引っ越し段階になって問題が浮上した。 猫を連れていくか行かないか? 私たち子どもたちは絶対連れて行くと主張。両親は駄目だと主張。2・3日話し合いが続いたが結論はでなかった。私のひざもとでその会話を聞いていた猫がいなくなったと思ったら階段をころげおちる大きな音が響いた。 あわてて階段の下を見るとかたわらにいた猫が横たわっていて即死だった。 15歳くらいになる老齢の猫で我々の会話を聞いていて自殺したのだった。 「もう十分生きたから世話はかけないよ!」「天国に行きます」と投げかけるように旅立っていった。

その猫の名は「ミヨン」  それ以来我が家の猫の名前は「ミヨン」なのである。

ガバネス ベッス ピーブ

Filed under: 未来へ向かうこれからの農業 — 管理人 @ 11:21 AM

今朝、昔の彼女の夢を見て目が覚めた。 思い出した。 苦い思いが頭の中をよぎる。

今から30年前畑を耕作しながら乳牛を40頭~50頭飼養していた。S43年に当時としては大規模な40頭牛舎を建設し最新式のパイプライン式搾乳機を導入した。 ところが少しづつ畑作物にウエイトを移行してS56年を迎えたある日。 1頭がケトージスという病気にかかりビール瓶にとかした薬を飲ませようとした。がなかなか飲まないので頭を固定して無理に飲ませてしまった。 すると気管に薬剤がはいり間もなくその牛は死んでしまった。 倒れてから荒い息使いをする牛にゴメンナを繰り返したが少しづつ呼吸する力が弱くなり最後に大きく深呼吸をして息絶えた。 死んだ瞬間を看取ったのははじめてでショックだった。 30分もしないうちに40度の高熱にみまわれその日は1日熱は引かなかった。 自分は牛を飼う資格がないと告げられたのだ。

 その年酪農をやめる決意をした。 それ以来肉を食べる時は家畜に感謝することを心がけるようになった。まさに口蹄疫などは人類に警鐘を鳴らしていることに気ずかなかればならないときなのかもしれない。

毎年家畜の霊を弔う馬頭観音にはお参りしている。  そして彼女の名前はガバネス ベッス ピーブである。 いまでも彼女の優しい眼差しは脳裏に焼き付いている。

 十勝では開拓時代は馬で畑起しをしておりどこの地域にも馬頭観音があります。 当時は馬小屋と住宅が同じ屋根の下で続いており、寝起きを共にしていて家族同然の生活をしていた。現在は馬がトラクターに変わり馬がいなくなったので家畜(主に乳牛)の霊を奉るようになりました。 宗派は違えども生きる人類の犠牲になっている家畜に感謝する気持ちは大切なことだ。 宗教によってはお参りできない方もおりますが我が家はあまり宗教にうといので家畜に感謝する気持ちを優先しています。 ここで年1回地元のお寺のお坊さんを呼んでお参りをして出席者で会食をします。

 ところで馬頭観音を奉っている建物はある農家のお父さんの作品です。 私は自費で防腐剤の塗装と屋根の塗装を手伝いました。  まったく手伝わない方で馬頭観音に防腐剤を塗っていいのかな!とか、屋根が錆びているのにいつになったら塗るんだろうと間接的に、時には直接的に言われる方がおります。  こんな人はごく一部ですが・・・・  笑って「そのうち塗るよ。」と言って睨みます。 ちなみに我が家のお墓の墓標は木材に私が文字を書いて建立しています。 なんでもお手製。ある時はにわか宮大工になり、ある時は普通の田舎の親爺になる。 自分たちで制作することによって弔う気持ちを高揚することも大切です。 

 ここでお参りすると今でも彼女の事を思い出すのである。

サツマイモ全部投げたよ!

Filed under: サツマイモについて — 管理人 @ 10:28 AM

 最近のしばれで雪室に収納しているサツマイモがついに腐ってしまいました。 保温シートをかけていたのだが床から寒さが侵入したようだ。 玄関などに貯蔵してあるものは大丈夫です。 となりの牧場の研修生にくばったサツマイモ全部投げたよ!  遠くまで持って行ったのでこわくて大変だった。 と言われたのでAコープで内地のめんこいサツマイモを買って研修生にくばりました。

きちんと雪室の扉をじょっぴんしていたのに最近のしばれはなまらきついからなぁー。

 約1300キロ収穫したサツマイモは多くの方に味見をしてもらいリピーターの方も沢山おられおいしかったよ!と言ってくれました。 腐ったサツマイモはわずか100キロほどのこして今年のサツマイモ貯蔵試験は終わりを告げた。 通称、赤土と呼ばれる褐色火山性土はサツマイモ栽培に適した土壌であり甘みも充分のり本州産より糖度は優っていると思います。 また牛堆肥、緑肥の導入で有機質が十分土壌にあり、水はけのよい圃場と最長の生育期間がとれればかなりの収量を期待できます。 今年は昨年の800株から2倍から3倍増の試験栽培をする予定。 

もしかすると十勝の土壌が日本のなかでサツマイモ栽培には最適なのかもしれないと気ずいたのは私だけではないとおもうが・・・・・・・。

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